昭和44年04月25日 夜の御理解
私はその、信心の節度と云う事をよく申します。いわゆる、キチッとしたおかげを頂く為には、矢張りキチッとした信心をしなければならんと、まあ云う事です。其処ん所を、私はあの、しだごだにしたんでは、どんなに良い信心が出けても、矢張りおかげの方がしだごだになる様です。
ですから、自分でこうと決めた事、はあ是が本当だと思うた事、其処ん所を行じて行く事が信心であり、そこからキチッとした信心の、させて貰う事の有り難さと言った様なものが身に付いて来るんです。ですから、そしてもう一つキチッとしたおかげを頂かなきゃならんと。今日もあの八坂先生ですが、お食事の後にでしたけれど一番、一番奥の間に休まれましたが、あちらからこう、ずっと朝でこちらへ出掛けに、あちらこちら、まあ見てまわ、見てこちらへ出られたんでしょうが。
もう隅々まで、あの行き届いた、あの御建築であると云う事と同時に、お掃除が行き届いておると云う様な事やら、もう庭の隅々から部屋の隅々まで行き届いておると云う事、もう大感心して話しておられました。もうどこの教会に行っても、勝手の方に行ったら、ああこう色々まあ、まあいわば良い所を見て下さったからなんでしょうけれどもです。ですからならそう言うような信心が、まぁある意味合いにおいては、なら私のキチッとした信心から生まれておるとです。
私はそう確信致します、成程ここの御信者が行き届いておられると、そうなんですけども。そんなら矢張り私が行き届いとるから、信者が行き届いとるんだと、こう思うんです。実際は、本当に相済まん事ですけれどもね。まあ、形の上だけでも、まぁあの実際そんな内部の事を覗けない人が、まあ外部だけを見てからそう言うて下さると云う事は、なら外部だけでもそれが出けておるからだと私は思うんです。
本当に考えて見ますと成程隅から隅まで、色んな意味合いで行き届いた事だなと思うんです。それは矢張り、私はこの信心の節度と云う事を厳しく。これは私が言うなら発明した様な言葉ですけれどね、信心の節度なんて云う事は他所で聞いた事がないです。ですから、お互いせっかくここで信心の稽古をさせて貰うのですから、その節度のところをキチッとしなければいけません。
ですから今日のあの、朝の御祈念の後に先生が目を覚まされる前に、お掃除を先済ませとかなきゃならんから、今日はあの、大体北野地区が当番だったらしいんですけれども、婦人会の方達に手伝ってからお掃除をして下さいと、私がここから申しましたもんですから、久留米の方達も残ってお掃除をしておりました。中に佐田さんああして一家で、自動車で参って見えられますから、残ってお掃除させて頂きたいと思ったけれども、もう自動車一緒に乗って帰ったと。それがどうもこれに引っ掛ってたまらん。
とうとう旗崎では、ちょっともういいから降ろして下さいお父さん。とにかく、私は矢張り今からでん、あの引き換えしてから、もしお掃除が済んどったならお便所の掃除だけでもさせて貰って帰りたいから、と言うてその、下りたらすぐその、合楽行きが来たと。もう合楽行きに乗らせて頂いて、自動車の中から、ここへ着かせて頂いてからです、それこそキチッとした様に。
ここだけは、貴女の分に取ってありますよと云う様に、そのお掃除の御用を頂いてから、帰らせて頂いたら、もう母は、久留米のお月次祭で御座いますから、もう朝すぐ行った。子供達が学校行かなければならない前にちゃんとこう、帰らせて頂いて、子供達にも不自由かける事なしに、いわゆるキチッとおかげを頂いたと、こう言うのである。そう言うこうしたが本当だ、こうさせて頂きたいと思う事を行じる所にです。
そういうそのキチッとしたおかげがこう頂けておるでしょう。そのその体験が素晴らしいんです。ですからその所がですねきちっと出来ませんと、そのキチッとしたおかげの方がしだごだになって来る事から、信心が崩れだします。所謂神様があるやら、ないやらと言った様な事にすらなり兼ねない事です。昨日光橋先生が朝のお届けに、今日はその御初穂がなかった。
しかし私は是はまあ何時もの事ですけれども、まあ光橋先生辺りがああして本当に、まあ細々とした御用では御座いますけど、御用させて頂いておればもう本当にこの合楽の矢張りある意味では小型ですよね、必要な物が必要に応じて頂けておると云う事実がある事。毎日こうして日参させてもろうて、やはり3人4人分のお初穂をちゃんと毎日毎日よう出来るの、食べても行かんならんとによう出来るねと言う位です。
ところが先生、もう本当に是だけは、そげんお参りがある訳でもないのですけれども、必要な時には必要にちゃんとお参りがあっておかげを頂きますとこう言う。ところが今日だけはその、無かった。そこで今日はまあうそでもよかたい、誰からか財布を忘れたか何かと言うて借らせて貰おうと、こう思うておったところが、今朝の御理解の中にね。例えば嘘を言うて自分の心の中の喜びを消したんじゃ馬鹿らしいじゃないかと言う様な御理解を頂いたんです。
ですからはあ。もう本当に自分は今日嘘を言う、例えばそれは神様へお供えする為の、まあ言うなら嘘も方便だからと言うて、こういう時に方便だと言やあそれまでだけれどもです。嘘を言うて借ったんじゃいけないと思うておりましたら、あの先日立て替えておった方が、丁度お参りして来てから、先日立て替えてあったお金と言うてから頂いた。おかげを頂いたという話、今日共励殿でしておりました。
だからもう今日はなか、なか事は神様がご承知じゃから。借ってからまでせんでん良かろうと、そう云う様な私はあの事からは、なら今先生が頂いておる、その信心の節度が出け、きちっと出来る所に矢張りキチッとした、こう寸分の狂いもない程しのおかげが、やっぱり受けておるんだと私は思うんです。今も、妹がこの月次祭に、ちょっと不用意でお初穂が出けてなかったからと言うて、その、これは( ? )、これは先日の月次祭のお初穂として( ? )。
もうそげんする事がいろうかいと言おうごとあるけれども、是は本人のそれが信心。それがそうと決めてあったら、それが節度なんだから、私は合楽で信心の稽古をする人は、こう言うところをですね、一つ本気で大事にして行かなければいけないと思うですね。是は、修行でもそうです。例えば、こうだと自分で心の中に決めさせて頂いて、もし出来ぬ所があるなら、お詫びの印に、その次には又、その修行がなされる。
そこんところをしだごだにしたんでは、矢張り信心の方がしだごだ、おかげの方がしだごだになって来る。又心に感じさせて貰う神様の信ずる力と言った様なものも、薄いものに成って来る。信心がそう云う様な所から狂いだしてはならん。そう云う様な所からです、まあドライと云う事を申しますが。例えば神様は今日はない事はご承知だから。今日はこんな風で忙しゅうしてもう。
バスがここまで、もう旗崎までもう帰ってるんだから、と言う様なのじゃなくて、矢張りそこに引っかかっておる。いわゆる割り切る、それをドライに考えきらない。そこに私は合楽の信心があると思うです。 そう云う所を、手厚うして行く所にです、間違いない働きを、すぐそこから受ける事が出来る、それが有難いのである。それが愈々信心の有り難さというものに触れて行く事が出来る、という訳なんですね。
どうぞ一つ矢張りもう引っ掛らんごつなったら、信心が怠慢になっておる時です。どんなにお粗末でありよろうが、御無礼でありよろうが、こげな事っちゃいかんとこんな事っちゃいかんと、初めなら思いよる思いよるけれども、それがもう慣れっこになってしまってです、それがもうこんな事じゃいかんとも思わん。お粗末ご無礼とも思わん様になったら、もう信心は堕落です。
そこから生きた物が生まれて来る筈ありません。時たまどんな良い信心したって駄目。そこんところをやり抜かせて頂けれる信心、そこんところを、やり抜かせて頂けれる一つの、まあ気迫とでも申しましょうかね、が、私は信心には必要だと思うですね。どうぞキチッとした信心させてもろうて、キチッとしたおかげの頂けれるようなね。どうかそこんところの稽古を一つ、繰り返しなさらなきゃいけんと思うですね、
どうぞ。